客は神か泥亀か

小学校に上がる頃だったか、『唄子·啓介のおもろい夫婦』という番組を視ていて(子供にしては遅い時間)、僕が[鳳啓介]のボケを真に受けて「アホや」みたいなことを言ったらしく(この辺の記憶が曖昧)、それに対するオトンの一言…

「ホンマは賢いから“アホ”なことが言えるんやで」

ここははっきり覚えていて、「あ、そーか」と妙に納得した。

それから“お笑い芸人”に対するリスペクトを持つようになった。

「笑わせる=賢い」

“賢い”は「勉強ができる」ではなくて「地頭が良い、場を、空気を読む」のニュアンス。

 

「末路あわれは覚悟のうえ」

の芸人稼業、馬鹿にされ、蔑まされて、それで飯を食っていた(河原乞食)。それにしても、客となる庶民の悲しい自尊心の不変なことよ。叩いても咎められない…惨めな自分より下の、そんなものを探して。

“芸能”に向けられる「侮蔑」と「尊崇」、このアンヴィバレントな感情が、芸能人に特別な位置を与えることに。オーラを纏う。極めた者はお国から表彰されるまでに(人間国宝文化勲章など)。逆にアホウな生きざまを晒し、または滲みでて人気を得ることもあり。まったく何が売れるかわからない、まあ庶民の気まぐれなこと。自分には無い、できない芸能者の振舞い、営みを驚愕して…

今や“カリスマ”や“天才”が乱造されて、ましてや“神”までもがひょいひょい登場し、もしそうならばもはや新時代的であり伝統が霞むのも仕方ない。

「昔が良かった」と簡単にいうつもりはないが、現“お笑いのカリスマ”は退場したままで、薄いカリスマを無理矢理?貼られ過ぎて、それが足枷になっているようにみえる。誰かがカリスマや天才を操っているのでしょーかね?

 

「責任者出てこーい!」

「出てきたらどないすんねん?」

「ゴメンちゃい…」

 

チャンチャン。