父親が生きていた頃、ウチの食卓に魚がでることはなかった。というのも父は魚介がまったくダメで、母が別に用意したマグロ、サケ、ブリ(薄い匂いのもの?)を隠して食べさせてくれた記憶がある。
かといって、ど貧乏な我が家、肉がふんだんにでることもなく「何喰ってたかな?」と思い出せないほど。コロッケや焼きそばが多かったかな?肉けなしの。(皆貧しかった)
「お母さんの味」と言えばコロッケになるのか、今だにジャンクフードが好きなのはここらあたりの影響かなと。
そのおかげか、高価な食事になびかないというか、それほど欲求が湧かない、特に魚介には。ウニやイクラと言われても、ケンタッキーフライドチキンのほうが…なんて感じで。もちろん、高価な食事に固執したり美味探求するのもありでしょう。
価値観は人それぞれ。
「酒よりも ひとのはなしに 酔わされて」
2にゃんと僕の三人暮らしゆえ、自炊が必然なのだが、元々外食欲はないほうで「面倒やな…」となる。ウチで弛んで食らう、テレビを観ながら、好きな音楽を聴きながら、猫とジャレながら、がいいのだ。
ええ歳こいて食べ方が汚い、ヘタなのも一因で、箸の持ち方も怪しいので、同席した人に恥をかかせないかとか、その辺の自虐ボケも飽きた。
「何を」より「誰と」がメインで食べ物はサブになる。好きな人、気の合う人との食事はなんでも旨い。「不味かったなぁ」の話が極上に“旨い”。
新世界の串カツ屋街、有名な[だるま]の隣、[越源]という店があった(今もあるの?)。古い汚い狭い店で、誰の目にも消防法的にアウトな佇まい(後に改装された)、ロックな兄ちゃん(店長)が“めんどくさそう”にラードを継ぎ足す。
[だるま]は常に行列ができ、[越源]はそのこぼれ客も多いのだが、ミュージシャンのポスターやフライヤーが乱雑に貼られた壁を見れば躊躇う人も居たかと…その壁に、誰が書いたか短冊に
「おもしろきこともなき世を おもしろく」
当時は誰の句とか知らず、「そーやなぁ、面白くしなきゃなぁ」と思ったもんだった。
高杉晋作の辞世の句、あとに
「住みなすものは 心なりけり」
と続く。この部分は[野村望東尼]という詩人が継いだとのこと。
「心の持ち方で、“面白い”を見つけられればええやん」と、なんかスッととれた気がした。
独りでコロッケを食べていたとしても、“面白い”は見つかるかもしれない。
自作でコロッケは、手間ですな。