“サリエる”心

1984年の『アマデウス』はとても面白い映画。[ミロス·フォアマン]監督、[ピーター·シェーファー]原作、脚本。

モーツァルトを殺した」との“懺悔”する宮廷音楽監督[アントニオ·サリエリ]の告白スタイルで進行するのだが、そこで語られる[ウォルフガング·アマデウス·モーツァルト]という人間の“天才”と“愚挙”に翻弄された、「音楽に全てを捧げ真剣に尽力する自分」という構図。でも、音楽の神が愛したのは下劣な[モーツァルト]のほう…

「なんで!?」「私のほうが真摯ですやん!」「あんな軽薄なヤツに…」嫉妬、妬み、嫉みが渦を巻く。消えてほしい…心は決まった。

生活にだらしない[モーツァルト]、体も壊し当然金欠になり、ある謎の人物から『レクイエム(鎮魂曲)』の作曲を依頼される。そう、謎の人物は[サリエリ]であり、[モーツァルト]の死後、自分の作として『レクイエム』を贈る親愛なる友…と企図するのだった。

が、『レクイエム』は未完で[モーツァルト]は死んでしまう。それでも根は真面目な[サリエリ]、自分の邪心が[モーツァルト]を死に追いやったと苛まれ精神を病んでいく…

使われている曲も「聴いたことある!」ものばかりで、クラシック音楽ファンならずとも楽しめるでしょう。

 

まあ、史実は諸説あるみたいで、この作品のせいで[アントニオ·サリエリ]という人の印象は“ザ·凡人”が定着してしまった。[ベートーベン]や[シューベルト]の世話をしただったり、“宮廷音楽監督”は当時音楽界の最高位であったことは間違いないので、再評価が待たれる。

 

失礼ながら、「創作の能力はないけど聴く耳は持っている」「天才性、芸術性を見極めることができる」の意味で“サリエる”と名付け「自分のことやん…」と落ち込むことしきり。何かしら評価するにも「またサリエってしもた」てな具合に…

サリエリ症候群”“アマデウス症候群”という言葉が精神医学界にはあるみたいだが、若干ニュアンスが違うようだ。「謎の人物に扮して他者を責める」、炎上目的の現在の匿名コメントなどを送る人に向けた使い方?がされているようだ(合ってる?)。僕の場合はより自虐に向かう。「俺みたいなモンが…偉そうに…評論家ぶって…」

もちろん影響力もなにもないので害はないだろうが、そもそも“聴く耳”も怪しいのでは?と自身に疑惑が持ち上がる。となると絶賛している[利理鈴まりりん]に申し訳ないので、まあ、考えないことにする。人並み以上音楽に触れているはず…ということで。

 

[サリエリ]は[モーツァルト]の“天才”を見抜く才能があった。凡な僕は[まりりん]の“なにか”を“サリエって”感じている。その審美眼が曇っていないことを願いながら。